院長の紹介

kile’a history

このような医療関係の仕事をしていると、「ご家族の誰かがやっているのですか?」と聞かれることがありまずが、極々普通の家庭に育ちました。ただ生まれてくる時はチョット大変だったようで、首にへその緒巻いており、仮死状態で生まれました。脳性麻痺の可能性もあると医師に言われ両親はとても心配したようですが、暖かい愛情で見守ってもらい何事もなく、すくすく育つことが出来ました。



よく、見た目がインドア派に見えるといわれますが、幼い頃からカラダを動かすことが大好きで、毎日飛び歩いていました。塀の上を走っていて地面に落ちたり、自転車の両手放しに挑戦して顔面から転んだりと毎日生傷がたえませんでした。そんな中で、とりこになったのが野球でした。小学3年生から本格的に野球部に入部し、小学校5年生で初めって行った東京ドーム。その時の球場の綺麗さ、華やかさに心を打ち抜かれました。この舞台に立ちたい!とプロ野球選手への憧れから目標へと変わった瞬間でした。

今でも忘れることのできない1994年、中学3年生の夏の大会。僕の肩は悲鳴をあげました。チームのエースに抜擢されていた私。この時も最終回まで投げきり見事勝利を勝ち取りました。しかし、通常なら2、3日で取れる肩の張りが一行に取れず痛みまで感じるようになっていました。時間が経てば取れるだろうと思っていましたが結局1週間後の試合は肩に痛みを抱えながら投げることに。そして、この試合で僕の肩は完全に壊れてしまいました。試合後は腕が挙がらず、少し動かすだけでズキッと痛みが走ります。箸を持つことすら辛く背中を洗うことは全く出来なくなってしまいました。

それからが病院、治療院通いの始まりです。その当時はまだまだMRIやスポーツ医学が世間に現れ始めた時代だったため、一般的な検査法のみで、検査に問題がなければ「ほっとけば治ると」言われる始末。こんな痛みを抱えながらも投球は続けました。肩の周囲を圧迫すると痛みが軽減したので、日本手拭いを肩の付け根に縛りあげて投げていました。一人目の打者には痛みと共に力が入らずほとんどフォアボール。次の打者でようやく力が入るようになりやっとまともな投球が出来る状態です。試合後、当然痛みは酷くなり、腕を動かすことすらできず、寝ているのもしんどい状態になってしまいます。こんな状態でも最後の市の大会では優勝ができたことは良かったのですが、肩の痛みが取れることはなく、今まで出来た友達との他愛のないボール遊びも出来なくなり元気もどことなく失って行きました。

痛くても好きな野球は続けたい。自分の夢をあきらめたくない。その思いだけでこんな肩の状態でも高校で野球は続けました。とにかくもう一度マウンドに立ちたかった。そのために治療院や病院に通い、内視鏡手術までしました。しかし状態は思わしくなく、出来る仲間を見るのが辛くなり出来ない自分を責め、頑張ることに疲れてしまい、現実から逃げるようになりました。好きなことが出来ないと「どうにでもなってしまえ-!」という気持ちになり何でも投げやりになっていました。勉強も何もかも。こんな姿を見るのは両親にとっても辛かったのでしょう。後に知った話しですが、なかなか改善しない僕の体を心配して、両親は密かに某占い師の所へ行き、助言を受けてきたそうです。それも東京まで。ここまでしてくれた両親に感謝しています。

そんな混沌とした状態が続いていた僕の高校生活を引っ張り上げてくれた治療院の先生がいました。「今はダメかもしれないけど高校卒業したらうちの野球チームでやればいいよ」不思議ですけどこの言葉に救われました。不安にかられ、現状を何とかしたいとばかり思っていた僕に居場所という未来を与えてくれたのです。心って不思議で、未来に希望が持てると今が輝き始めるんです。すると、あんなに辛かった肩の痛みも軽減しはじめたのです。この時に「人の痛みって心の状態ですごく変わるものなんだなぁ」と感じました。そして、この仕事ってすごいな!苦しんでいる人を手助けしたい、僕みたいに怪我で大好きな事が出来なくなる事を予防したい、という思いが沸々と湧いてきました。そして治療家という道を進み始めることになりました。野球をしていた関係から、卒業後はスポーツトレーナー関係のメディカルトレーナー専門学校に進学。アメリカでのトレーナーワークショップに参加。その後地元の整体院に就職しました。心で人の体は変わることを経験した僕は、心と体の繋がりをもっと勉強したくなり、約2年勤めた後、カウンセリングの学校に通いました。そして学校に通い始めと同時に2003年、自宅の一室を使い開業することにしました。

開業してからはセミナーや講習会に度々参加していましたが、そこで痛感したのがまだまだ勉強不足だということでした。そこで一大発起し、2008年からはり灸の国家資格を取りに長野市にある信州医療福祉専門学校へ通うことにしました。朝6時に家を出て電車で長野まで通い、授業を受け、帰宅後、午後4時から9時まで治療院の仕事。毎日テスト三昧なので帰宅後は勉強。子どもが生まれたばかりだったので育児(もちろん妻がほとんどですが)と三足のわらじを履くという状況でした。学校に通っている3年間は勉強に集中するということで、多くのセミナーにも参加。全国の治療家さん達と出会うことが出来、良い刺激を沢山受けることが出来ました。そこで、現在の私の考え方に大きく影響を与えてくれた三軸修正法創始者の池上六朗先生と、とまどかクラブ主宰の石井健之先生に出会うことが出来ました。平日は学校、休日はセミナーと、3年間よく通うことができたなぁとつくづく思います。

それもこれも妻の内助の功があったお陰です。妻なしではこの3年感間は乗り越えられなかったと思います。本当に大変でしたが、目標に向かって熱い思い、年代の違うクラスメートと過ごせた3年間は僕の大切な宝となっています。そして2011年、家族や患者さん、仲間の励ましで無事、はり灸師の国家資格を取得できました!

2016年にはハワイ大学医学部において解剖学セミナーに参加し、とってもいい勉強をさせていただきました。そして2017年に大きな出会いがあり松井秀喜選手の専属トレーナーをされていた小波津祐一先生の元で勉強をできる環境を手に入れることができました!(当院に飾ってあるユニフォームの選手を診ていた先生に出逢えるなんて!)かなり高度でとても感覚を必要とする技術ですが、どうにかみなさまに還元できるように現在も月最低2回、大阪へ通い必死に技術の研磨に励みまだまだではありますが認定治院になることができました。

皆さまのお陰で当院も発展し、沢山の方に支えられ成り立っています。特に開業当時の未熟な僕を育てていただいた、開業当時からの患者さんには頭が上がりません。だからこそ、成長し続けなければならないと思っています。

僕は怪我をした事で多くの事を経験しました。出来なくなる悲しさや悔しさ。なかなか改善しない不安や恐怖。

そこかおこる不安定な人間関係。絶望し自分自身を責め他人を羨むこと。
たった一つの言葉で救われること。心が変わることで痛みが軽減すること。
ずっと悪い状態が続く事はないこと。必ず体には変化が起きていること。

そして未来に希望を持つと今が輝き始めること。

自分が関わった患者さんは絶対に良い方向に導くという覚悟で、来て頂いているみな様への責任と、心と体の繋がりを大切にし、質の向上と共に、気楽に来院できる温かく楽しい、地域№1の治療院を目指します!

「Put sparkle in your life 治すカラダから治るカラダへ」を治療院のミッションとして日々精進してまいります。どうぞ末永くご愛顧のほどよろしくお願いします。

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